今朝は、車のフロントガラスに霜が張っていました。気温は2℃。とは言え、数字ほどには寒くありませんでした。今日の夕飯は、昨日作っておいた海老といかのシーフードカレー。それに、一昨日のハンバーグの残りを加えて、シーフードハンバーグカレー。豪華です。

シーフードカレーはまだあと三食分は残っているので、明日の私のお昼、明日の夕食までこれで心配ありません。明日で仕事納めですから、明日の夜はのんびり過ごせそうです。

さて、私の愛読書「精神科における予診・初診・初期治療」(笠原嘉著)にこんな一文があります。精神疾患の遺伝要素を過剰に心配する家族に対して、笠原先生ならどう答えるかについて言及した箇所です。

私なら、多分こういうであろう。人間誰一人遺伝から自由な者はいない。私だって(今顕在していないとしても)将来、遺伝病発病の可能性なしとしない。その点で違いはそんなにない。しかし、医療は人間の中の健康な部分に向かってなされる。病的な部分に過度に注目しすぎるのは反医療的である、と」(笠原嘉「精神科における予診・初診・初期治療」p45)


この「医療は人間の中の健康な部分に向かってなされる」という一文は、医療関係者のみならず、患者や患者予備軍も含め、頭に置いておくべき事柄であると思います(無論外傷など、そうでない場合もあるのですが)。

特にこの事は、精神疾患においては、これは患者(私、「当事者」という表現が好きじゃない。精神疾患はれっきとした病気であり、「当事者」なんて書いてしまうと、患者や患者家族の苦悩が、丸ごとオブラートに包まれてしまうような気がしてならない)本人、またその家族が、心に留め置くべきだと思います。

医療が人間の中の健康な部分に向かってなされるのであれば、双極性障害であれ鬱病であれ統合失調症であれ、その人の持つ「精神的に健康な部分」に、より目を向けてあげる事が、とても大事な要素になってくるはずです。病的な部分に目をつぶろうと言うのではありません。患者の健康な部分は、病的な部分を支えるよりどころになっているはずですから。

患者本人が、自分の中の健康な部分に目を向けられなくなる場合も、多々あるでしょう。そんな時こそ、周りにいる家族が、患者の健康なところに目を向けるべきです。もし目を向けても健康なところが見当たらなかったら、草の根を分けても探すべきです。健康な部分が何一つない精神疾患患者なんて、いないはずですから。

そしてそうする事が、患者本人にも、患者家族にもお互い心の平安を保ち、治療を前向きに進める上で役に立つと、私は信じてやみません。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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昨日はなかなか寝付けず、寝付いても眠りが浅く、朝が非常に起きるのが辛い日でした。日中は別にきつくもなかったので、自分の感覚よりは寝れていたのかも知れませんが。

最近は寝付きが良かったので、これほど寝付けなかったのは久しぶりです。しかしほんの一年半前までは、睡眠薬かお酒がないと眠れませんでしたので、少し時間がかかっても何も使わずに眠れるというのは、幸せな事だなと思っています。

この、不眠の苦しみというのは、味わった事がない人には絶対に伝わりません。鬱や双極の人の、鬱状態の辛さも、普通の人には伝わらないものですが、不眠の辛さも、まず理解してもらえないものです。

私が鬱が一番酷かった時は、やはり不眠で悩まされていました。睡眠薬を常用していると、今度は頭が働かなくなったり、午後になると午前中何をしていたか思い出せなくなったりするのです(そんな状態でよく仕事していたなと思います)。

そんな時に、同僚から「眠れないんならもっと体でも動かせば眠れるだろ。甘えるな」みたいな事を言われ、こいつとは、永久に同じ空気を吸いたくないと思いました。今でもその同僚とは、話す事は全くありません。その程度の知識で、よくも医療技術者をやっていられるものです。

それはともかく、不眠というのは本当に辛いものだという事が、もっと多くの人に知られて欲しいなと思っています。まあ、不眠にしろ摂食障害にしろ、こういう「普通の人はあって(できて)当たり前」の事ができない、ないというのは、絶対に想像できないんでしょうね。人は、自分が経験した事がない辛さというのは、頭で理解しようと努力しない限り、決して自然に理解できるものではありませんから(そして、人は自分と関係のない領域を、努力して理解しようなどとはしません)。

さて、今日の夕食は親子丼を作りました。親子丼は、卵の火の通し方にコツが要るので、単純そうに見えてなかなか奥が深い料理です。以前よりは慣れてきたとは思うのですが。

171129親子丼

写真が全然美味しそうに見えませんね(笑)。ささみはいつものように、酒と砂糖、塩少々の下ごしらえ。とても柔らかく仕上がります。職場の、四十代主婦の同僚にこの下ごしらえ方を教えてあげたら、「ささみも胸肉も、凄く柔らかく美味しくできるようになった!」ととても感謝されました。ささみも胸肉も下ごしらえ次第ですので、工夫が大切です。

明日は十一月最後の日。十一月は、私も妻も、色々振り回された月でしたが、来月は将来の希望へのきっかけを掴める月にできればいいなと思っています。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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今日も暑かったですね。仕事が終わって帰る時の気温が32℃。何やら北海道も暑いらしく、大変そうです。北海道って、エアコンがある家がそれほどないらしいですからね。

ただ、暑いと言っても夜は気温が20℃そこそこまで下がるそうなので、寝苦しくはなさそうです。下関だと、夜10時でも28℃、なんて事が珍しくないですからね。これではぐっすり眠れません。

さて、最近「障害者」の事を、「障がい者」とか「障碍者」と書く人が増えている気がします。が、私はこの表記が好きではありません。この表記に限らず、言葉による差別だとばかりに、次々「無難な言葉」に言い換えていくのが、どうも引っ掛かります。

そもそも、言葉を言い換えたからって、何が変わるんでしょう。逆に、ただ言い換えただけで何も変わってない気がするのです。大事なのは言葉じゃなく、障害者とどう接するかではないんでしょうか?

他にも、「痴呆」が「認知症」に言い換えになった例にしても、「認知症」という、すべてをオブラートに包んだような表現からは、この病気(正確には病気というより、「症候群」なのであるが)の持つ恐ろしさや問題点は、何ら伝わってきません。

そして、「認知症」と言い換えた事で、世の中の人の、認知症の老人に対する見方や接し方が何か変わったかといえば、私には何も変わったようには思えないのです。

「障碍者」「障がい者」という言葉にしても同じです。こういう「オブラートに包んだ」言葉を使う事で、障害者(特に精神障害者)に対する世の中の見方が何か変わったでしょうか? これも、私には何ら変わったようには思えないのです(以前にも書いた通り、医療従事者ですらよく分かっていない人が多いですから)。

「障がい者」「障碍者」と、言葉だけ変えて終わる事ではなく、その本態をもっと多くの人に理解してもらう事こそ、もっと意識されるべきなのではないかと思うのですが、現在のところそれは正直望み薄であるとしか思えません。

言葉が大事でないとは言いません。でも本当に大事なのは、障害者に手を差し伸べるコミュニケーションとしての言葉であり、「ラベル」としての呼称にこだわる事ではないと思うのです。ラベルにこだわるなら、中身はどうでしょうか? そこにこそもっと目を向けられるべきだと思います。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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最近は、インターネット環境の発達で、ひと昔前であれば専門職や技術職でないと知らない言葉が、一般の人々にもよく知られるようになってきていますね。医療においても例外ではありません。

例えば、「アスペルガー症候群」や「ADHD」など、以前は医療職でないと知らない言葉でしたが、今では広く一般に知られているように思います(が、「双極性障害」という言葉は、医療職でも精神科以外ならば知らない人が多い。実話)。

ただ、知られるようになったはいいんですが、本来の意味と違う、「雰囲気だけ」の使われ方をするのはいかがなものか、というような感じもしています。

例えば、会話で少し場にそぐわない発言をしたら、「お前アスペなんじゃないか」とか、ちょっと落ち着きのない人に「ADHDだな」とか。こんな使われ方をしたら、アスペルガー症候群の人とか、ADHDで苦労している人なんかは、たまったものではありませんよね。「よく知りもしないのに、一緒にするな!」と怒られそうです。

あるいは、気分がちょっとハイになっている人が、「今日ちょっと躁状態で」なんていう発言も、少々いかがなものかと思います。一般の方からすると、躁状態=ハイテンション(この「ハイテンション」という言葉が私は好きではないのだが)くらいの認識でしょうが、躁状態というのが、どれほど恐ろしいものかは、双極性障害の人なら分かるはず。「たかが気分がちょっといいような状態を、躁状態とかふざけるんじゃねえ!」と言われてもおかしくありません。

おかしな事に、こういうおかしな使われ方をするのは、精神科領域の言葉だけのように思います(他にも「妄想」とか「多重人格」とか……)。例えば、少し手が不器用な人に対して、「お前脳梗塞なんじゃないか」とか、つまづき癖がある人に対して、「パーキンソンだな」なんて言ったりはしません。そんな事言ったら、人権問題にかかわりますよね。

あまり言葉に過剰に反応するのも考え物ですが、言葉だけが独り歩きするのではなく、その言葉の本当の意味や、そういう症状の人の辛さというものも、もう少し広まっていいんではないかと思うのです。上で「医療職でも双極性障害の名前を知らない」と書きましたが、驚く事に医療職であっても、「躁状態なら元気って事だから、別にいいんじゃない?」なんて人も存在します。

情報があふれて錯綜する現代だからこそ、ネットで拾った言葉を未消化なまま、適当な意味で使うのではなく、一人一人がその言葉を本当に理解し、正しい使い方をしていくある意味の「自制心」が必要なのではないでしょうか。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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今日は一日雨。家の前の桜並木は五分咲きというところ。せっかくの桜を、味わう間もなく花が散ってしまいそうですが、まあこんな年もありますよね。

さて、先日あるブログで見たんですが、癌などの不治の病で、「あなたは余命○カ月です」という余命宣告。これって、怖いくらい当たるそうなんです。これは別にその医師が正確に余命を診断できているから、という訳ではなく、余命を宣告する事で、患者の究極の「負のスイッチ」を入れてしまうから。

つまり、余命宣告する事で、「ああ、もうあと○カ月しか生きられないんだ」という意識を強烈に埋め込み、それが本当に死へ向かわせる、というもの。もちろん病気で亡くなるんでしょうが、確かにそういう一面もあるでしょう。

このような医師によるマイナスの意識付けを、統合医療で世界的に有名なアンドルー・ワイル博士は、「医師による呪い」と表現していました。あるいは、究極の「逆プラセボ効果」とも言えるでしょう。

医療に携わる者が、この「逆プラセボ」の効果を自覚せず、気軽に負のオーラに満ちた言葉を口にしている事が多いのではないかと、私も感じます。

そして、マイナスの意識付けが可能なら、当然プラスの意識付けも可能なはずです。治ると確信している人と、治るはずがないと思い込んでいる人、どちらが治る可能性が高いかと言えば、絶対に前者です。これは、私も日々の仕事の中で実感しています。

精神疾患とても例外ではないはずです。が、鬱病や双極性障害のさなかにいる人に、「自分は絶対治る(寛解する)という確信を持て」と言ったところで、それは難しい相談です。双極の躁状態は、自分を病気だとは思いませんし、鬱状態の人にそんな事ができる訳ありません。

だからこそ、家族など身近な人が、絶対に寛解するんだという確信を、単なる気休めではなく持ち、その確信でもって患者本人と接し続けるというのは、とても大事な事ではないかと思うのです。

患者本人の意識付けじゃないと意味がないかと思いきや、そんな事はないと思います。身近な人のそういう意識って、きっと伝播します。逆に、ネガティブな意識も患者本人に伝播するでしょうし、そうすると患者と家族が負のスパイラルにはまり込み、お互い疲弊しきってどん底に、なんて危険もありうるかも知れません。

そういう訳で、私は妻がこの先きっと寛解すると信じて疑いませんし、もうすぐ2年ですが、一度もその希望を失った事はありません。そのためにできる事なら何でもするつもりでいます。食べ物にもなるべく工夫しようと思っていますし、また他にもできる事はたくさんあるでしょう。

「わらにもすがる」という、ネガティブさから逃れようとする気持ちではなく、「寛解する」という前向きの確信と希望をもって、いろいろ実行する方が、きっと妻にもいい影響を与えるんじゃないかと信じます。

そう思って、これからも私にできる事を、1つずつ積み重ねていくつもりです。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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