今日は、私は少し買い物に行った程度で、特に用事もなく過ごしたんですが、妻は地下鉄で札幌駅まで行って、お義母さんと買い物。パソコン用の椅子など、少し大きな物を買いに行ったのです。持って帰る手段がないので、当然配送を頼むのですが。

まだみぃが新居に慣れておらず、留守番をさせられないので、私がみぃと一緒に留守番という事になりました。妻は一時前に出かけて、四時前に帰ってきました。疲れた様子でしたが、椅子はお気に入りの物が変えたようです。届くのは来週月曜。どんなものが届くのか、楽しみです。

さて、私は一応クリスチャンであるため、こちらで通える教会を探しています。しかし、意外と気軽に通えるような場所に教会がありません。

また、礼拝の開始時刻も大事です。以前通っていた教会は、十時半から始まり、十一時半には大体終わっていたので、礼拝が終わるとちょうど昼食の準備をするのにちょうど良かったのです。

が、探してみて近くで通えそうなところは、礼拝終了時刻が十二時半だったり(昼ごはんを準備しないといけないのに、この時間では遅すぎる)、なぜか昼の三時からの礼拝だったり(これでは日曜に何の予定も入れられない)、時間の面で合わない教会が多く、ちょっと困っています。

近隣にあまりこだわらず、地下鉄で少し足を伸ばすような場所も視野に入れて探してみた方がいいかも知れません。病院や学校と同じく、教会も長く通うなら、意外と相性が大事ですからね(前通っていた教会が、牧師が召天してから足が遠のいたのも、そのせい)。

明日は特に用事もないので、近くを散歩してみようと思っています。これまで、駅側の割と開けた場所にしか行っていなかったので、今度は散歩がてら駅と反対側も歩いてみる予定。

新しい街を知るには、一にも二にも歩く事ですから、歩いてこの街を少しでも把握できるようにしないといけません。仕事もしばらくないですし、のんびり行きます。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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昨日は朝から夕方まで岡山。そして今日からまた仕事。意外と疲れはたまっておらず、快調でした。

来週の日曜がクリスマスイブですが、ケーキは前日の二十三日に申し込んでいます。クリスマスはキリスト教のお祭りですが、そもそも十二月二十五日はキリストが生まれた日ではありません(クリスチャンなら大抵誰でも知っている事ですが)。

じゃあいつ生まれたんだよという話ですが、少なくとも「十二月二十五日ではない」というのだけは間違いなさそうです。というのも、聖書のルカ福音書を読むと、キリストが生まれた夜、羊飼いたちが野宿をしていたという記述があるんですが、いくらイスラエルでも、真冬に野宿はできないらしいのです。

その他、聖書の記述をあれこれ検証すると、キリストが生まれたのは十二月二十五日ではないというのは、今では定説になっています。じゃあいつ生まれたんだよ、という疑問が出てくるのも当然ですが、「大体三月から九月のどこか」という事らしいですよ。何という大雑把な(笑)。

それなら、十二月二十五日という日付は何なんだという話ですが、これは当時のローマ帝国の異教の祭りから来たそうです。太陽の神のお祭りらしいですね。ちょうどその頃が冬至で、そこから太陽(=昼の時間)が長くなっていくので、聖書で「義の太陽」(旧約聖書マラキ書三章二十節)と書いている、イエス・キリストのお祭りにした、という事のようです。

そういう訳ですので、クリスマスはキリストが生まれた日ではなく、「キリストが生まれた事を記念し祝う日」なのです。建国記念の日みたいなものですね。なので、別にお祝いはイブの前日でもいいんじゃないかなと思います(笑)。

まあ、妻とのお祝いは二十三日にして、二十四日は教会にクリスマスの礼拝に行ければいいなと思っています。最近、なかなか教会に足を運ぶ機会がありませんから(遠いですし……。車で三十分少々です)。

クリスマスは、もちろん誰がお祝いしてもいい日なのですが(イエス・キリストのご誕生は、おめでたい事に間違いはないですからね)、クリスマスの意味を少しでも知ると、より幸せな気持ちでクリスマスイブやクリスマスを過ごす事ができる、かも知れません。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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今日は朝から台風の影響で、雨と風が強く、一日家で過ごしました。とは言え、下関は風速もせいぜい10m/sくらいで、被害も特になく、無事にやり過ごせて一安心です。

さて、日本で「週末」と言えば土日の事を指すようです。そして俗に「サザエさん症候群」と言うように、休みの日曜日を過ごして、サザエさんのエンディングテーマを聞きながら、「ああ、明日からまた仕事(学校)か。憂鬱だなあ」となる、というのが、一般的な日本人の感覚なのかも知れません。

しかし私は、そのように感じた事がありません。何故かと言いますと、「日曜日は週末ではなく、週の最初の日」だと思っているからです。

カレンダーを見てください。日曜日は一番左にありますね。そもそも一週間が七日というのは、ユダヤ教やキリスト教から来た習慣です。ユダヤ教では安息日が土曜日ですが、キリスト教では日曜日です。なので、日曜日が休みというのは、キリスト教由来なのです。

そのキリスト教(ユダヤ教)では、日曜は週の初めの日です。聖書で、キリスト復活の朝は「週の初めの日」と書いてありますが、これは日曜日の事です。そしてクリスチャンは、キリストの復活した日が日曜日ですから、毎週日曜日には教会へ行き、キリストの復活を記念して、礼拝を守ります。そして、週の初めの日に心の栄養をいただき、「今日も一週間頑張るぞ!」と、エネルギーをチャージするのです。

こう考えると、日曜が終わるとしても、単に週の初めの日が終わるだけで、「よし、明日からも頑張るか」となります。些細な考え方の違いですが、これだけで日曜日の捉え方が全然違います。日曜が週の終わりの日だと思っていると、朝もいつまでも寝ていたくなりますが、日曜が週の初めの日だと思うと、「一週間の最初の日だから、早起きしよう」ともなります。

逆に、週の終わりの日である土曜日が、ちょっとだらけるんじゃないのと言われたら、少しそうかも知れませんが(笑)。

別に、聖書を読んだり教会へ行って礼拝に出席する必要もありませんが(もちろん、行きたい方は是非行ってください。どこの教会も大歓迎してくれます)、日曜日が週の最後の日ではなく、週の最初の日だと、考え方を変えてみてください。それだけで、日曜日の過ごし方が変わり、日曜の夜の憂鬱な気分がなくなるかも知れませんよ。

と書いてみましたが、今週は明日も祝日でお休みです。なんだか得した気分ですね。

台風も無事に通り過ぎましたし、明日は少し出かけられたらいいんですが、それは妻の調子次第ですね。まあ無理せずのんびりと休日を過ごします。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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今日の妻は、夕方までは調子が良かったようなのですが、夜になってまた調子を落としてしまいました。なかなか上手く行きませんね。

今日の夕食。鶏むね肉のイタリア風。付け合わせは、小松菜の胡麻和え。ちょっとミスマッチです(笑)。鶏むね肉は、酒、少量の砂糖と塩でしばらく漬け込んだあと、片栗粉をつけて焼けば、驚くほど柔らかく仕上がります。もも肉より脂肪分が少ないから、上手く調理したいですね。

170524今日の夕飯

小松菜の胡麻和えは、湯がきすぎず、鮮やかな緑色になったくらいですぐお湯からあげた方が、歯ごたえが良くて美味しいです。そのくらいだとちょっと独特の苦みが残りますが、それくらいの方が体にいいかも?(本当かよ)

さて、私はクリスチャンですから、夫婦関係もできれば聖書に則って築ければなあと思っている訳です。では聖書には夫婦についてどう書いているかと言いますと……。

いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章33節)


エフェソの信徒への手紙の第5章後半は、妻と夫について書かれています。21節の「(キリストに対する畏れをもって、)互いに仕え合いなさい」から始まります。この「(夫婦は)互いに仕え合いなさい」というのが、まず強烈な命令ですよね。「旦那はお金を持ってきてくれる存在」「妻は家事やって料理作って待ってればいい」と思っていると、こういう言葉は脳天に落ちる稲妻のように響く事でしょう(笑)。

そして、「夫は妻を自分のように愛しなさい」と書いてあります。「汝の隣人を自分自身であるかのように愛せ」は、キリスト教の基本的な教えですから、この命令はある意味当然ではありますが、これは要するに「妻の事を、あたかも自分自身であるかのように、(自分自身を差し置いて)愛せ」という事です。

自分の欲しいものよりも妻の欲しいものを、自分の時間よりも妻の時間を、自分の命よりも妻の命を優先せよ、という事です。この後「妻はすべての面で夫に仕えるべきです」「妻は夫を敬いなさい」とありますが、妻に対してこう聖書が命令するのも、夫に対する厳しい戒めがあってこそです。

妻の方とて、自分の事を命がけで愛さない男に仕えたり、そういう夫を敬ったりはできませんよね(笑)。夫は何も自分の務めを果たさず、妻だけが夫に仕え、夫を敬えというのでは、行きつく先はDVになりかねません。

要するに、夫も妻も、「ある程度自分を犠牲にする覚悟を持ちなさいよ」という事です。O.ヘンリーの「賢者のおくりもの」の精神です。「性格の不一致」とやらで離婚する人々も多いですし、実際いかんともし難い理由で別れる夫婦もあるんでしょうが、夫婦というのはもともと他人ですから、夫婦がお互いに、同じくらい自分を犠牲にする覚悟がない限り、それはそのうち破綻するに決まっていると、私は思います。

私がそこまでできているかと言われますと、はなはだ自信がないのですが、目標はそこに置いて、夫として少しずつ成長できるように努力していければと思っています。

「賢者のおくりもの」は、こういう言葉がラストに来ます。

Maybe the hairs of my head were numbered,
but nobody could ever count my love for you.
(私の髪の毛の数は数えられたとしても、私のあなたに対する愛は誰にも数えられはしない)


いつまでもこういう心がけでありたいものです。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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今日は連休の初日。憲法記念日でした。天気もまずまずで風も気持ちよく、過ごしやすい一日でした。妻は暑さで参っていましたが……(笑)。

お昼ごはんは、さっぱりした物を食べたいという妻のリクエストに応えて、おろしかしわそば。夕ごはんは一転してピリ辛の、キムチ焼きそば。昨日あんな事を書いたのに、麺類が続いてしまいましたね(汗)。夕方には、みぃを連れて散歩にも行きました。

さて、新約聖書にこういう言葉が載っています。

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 (ルカによる福音書21章1~4節)


私たちは、人の行動を、その「絶対量」で見がちです。しかし、行動はその人の能力と照らしあわされるべきです。例えば、幼い子供がお父さんに誕生日に、画用紙に書いた似顔絵をプレゼントするのと、若い社長が彼女の誕生日に、会社の経費で食事をプレゼントするのでは、全然意味合いが違いますよね。

どっちが上とか下とかの話ではないのですが、少なくとも、単に表面的なコストだけ見て、幼い子供のプレゼントが価値がない、という人はいないはずです。

同じように、双極性障害や鬱病の周りにいる人は、そういう精神疾患が、普通の人のように行動するのがどれほど大変かを理解して、患者本人のわずかな心遣いに、敏感になって欲しいのです。

双極や鬱病で何もできない人は、好きで何もできない訳ではなく、何もできない自分を本当に情けなく思い、少しでも何かしたいと思っているのです。ですから、患者が示したほんの些細な気遣いを、しっかり受け止め、その気遣いに感謝する事です。上のイエスのたとえ話にあるように、健常人から見たら取るに足らない行動でも、それはもしかしたら「やもめが全財産として入れたレプトン銅貨」かも知れないのです。

逆に患者の側は、「何もできなくて申し訳ない……」という思いを捨て、「いつも支えてくれてありがとう」という感謝の思いを持つ事です。と言って、これが簡単ではないのですけどね(汗)。

患者を支える側は、「辛いのに、気を遣ってくれてありがとう」、患者は「いつも支えてくれてありがとう」と、共に感謝できれば、毎日楽しく過ごせます。私は、妻から毎日たくさんの物をもらっています。だから頑張れるのです。

明日は連休二日目。のんびりで行きましょう。 にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
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